椿・侘び助


  
    

 

 巨勢山の(コセヤマ)つらつら椿            
        つらつらに 見つつしのはな
          巨勢の春を  坂門 人足 巻1 54

     つらつら椿→花が点々と咲く葉が艶やか

     あしひきの 八峰(ヤツオ)の椿                   
        つらつらに 見とも飽(ア)かめや

                                    dscn7422DSCN7588
          植ゑてける君 大伴家持 巻20 4481             

       あしひきの→山の枕詞                                        黒侘助 ↑

 

黒侘助(黒わびすけ)は永楽の別名。

暗紅色黒紅色)の一重で赤黒い花びらの色筒咲きの小〜中輪です。

開花期は34月です。茶花におすすめです。

 

チャドクガは、通常、年に2〜3回発生 毒のある毛は抜けやすく、死骸でも毒を持っている。葉に付着しやすい乳剤タイプ。

人体に強烈な椿の害虫  オルトランは、根から吸収して  スミチオンなど霧吹きをするかカルホス乳剤を散布。

 



 

 

 

 

 

 

 

「侘助の由来は、茶道のワビ(侘)とスキ(好き)の複合語と言われ、また千宗易の下僕の侘助にちなむとも言われます。

閑寂な風趣ですから、大輪で満開の花は似合わない、一重小輪、薄色椿が、ことに好まれました。それらを茶人は侘助とんた。
侘びの心をもって花は軽く生けるのがよい。それが侘び茶の美であり、侘び茶の真髄にかなうものだ。」

シロワビスケ

文・湯浅浩史 写真・永田芳男

写真
 


椿姫=マルグリット・ゴーティエは白い椿を愛しテーマです。

ワビスケの品種は、ふつう花がピンク。それがシロワビスケは名の通り花が白い。

早咲きで、11月から咲き始め、花期は長く、3月ごろまで観賞できる。

加えて色と形のよい上品な小花で、茶花に好まれる。

京都の修学院離宮の林丘寺に後水尾天皇遺愛と伝わる古木があり、

育成されたのは江戸初期か。

20060126日付朝日新聞朝刊)

 

 

  DSCN7423

 

 

 

 

 

写真 DSCN18141
 

 


白玉

 

 

 

名とイメージの一致するのは蕾(つぼみ)。

小ぶりの蕾が、丸くて白い。花の咲き始                                

 

家内の大島紬

めは開き切らない筒咲きながら雄しべは、

やや展開する。蕾の色や形は加茂本阿弥に似るも、

一回り小さい。

写真古くから茶花に好まれ、森富夫氏によれば、

白玉椿の名は室町時代、堺の天王寺屋宗達の茶会記に4回出るという。

20060305日付朝日新聞朝刊

香りツバキ

花は姿、色、香りが三拍子。それが日本産の花木の多くは香りが乏しい。

ツバキも太郎冠者(たろうかじゃ=有楽〈うらく〉)などでほのかな香りが知られていたに

過ぎない。

その育成の一つはヒメサザンカとの交雑。

尾川武雄さんは自生のヤブツバキから伊豆大島で「香紫(こうし)」を、

自宅紅白椿三宅島で「香御前(かおりごぜん)」を見いだした。

20060306日付朝日新聞朝刊)

 

 

 

川の上(へ)の つらつら椿

つらつらに 見れども 飽かず

巨勢(こぜ)の春野は

 

          春日蔵首老・カスガノクラビトノオユ

 

川のほとりに咲いているつらつら(ツラナリ)椿よ

     ああ つらつら見ても飽きることがないなぁ

このすばらしい巨勢山(こぜ)の春野は            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


MARSHALLと椿大木 福島・霊山・愛姫メゴヒメ街道にて、南側のみ花を咲かせている

羽州街道は、奥州街道を桑折(こおり)宿(福島県桑折町)で分かれて出羽国(秋田と山形)へと向かう街道である。

小坂峠を経て、上戸沢(かみとざわ)、下戸沢(以上、白石市)、渡瀬(わたらせ)、関、滑津(なめづ)峠田(とうげだ)湯原(ゆのはら)(以上、七ヶ宿町)の7つの宿場を通って楢下(ならげ)宿(山形県上山市)に至る区間は、特に「七ヶ宿街道」とも呼ばれてきた。

天正71579)年の冬、米沢の伊達政宗のもとに三春城主田村氏の娘の愛姫(めごひめ)が小坂峠を越えて嫁いだことから、

「愛姫街道」とも呼ばれる。

江戸時代には、出羽の13の大名の参勤交代や出羽三山詣などの旅行者、一般の物資輸送で賑わったが、

明治20年に白石・米沢間に馬車の通れる道が完成すると、旅人の姿は峠道からしだいに消えていった。

「桑折・藤田で女郎かうよりも小坂峠を馬で越せ」との言い伝えが関宿に残るほどの険しい峠である。

 

06.5.5

 

都婆伎、都婆吉 又、海石榴、海石榴市「つばいち」

とも、漢字の音、訓のどちらで読んでもつばきとするのは困難。

これは万葉仮名ではなく、ツバキを意味する漢名、

すなわち唐代のツバキに対する呼称と考えねばならない。

 

足病之 山海石榴開 八峯越 鹿待君之 伊波比嬬可聞
  あしひきの山つばき咲く

八つ峰(お)越え鹿(しし)待つ

君が齋ひ妻(いわひづま)
   巻六 一二六二 詠人不詳

 奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒
  奥山の八峯(やつを)の

つばきつばらかに今日は暮らさね

丈夫(ますらを)の伴(とも)

 

桐野秋豊さんの「茶席の花 椿と侘助」(1986年、文化出版局)、「色分け花図鑑 椿」(2005年、学習研究社)によると−。

数奇屋(別名・数奇屋侘助)、昭和侘助(別名・初雁)とも侘助の仲間ですが、数奇屋は花びらの先が中折れするキキョウ咲きなので、

昭和侘助と形が全く違います。

また、咲き方は数奇屋が猪口咲き、昭和侘助がラッパ咲きです。

あと、昭和侘助の葉は先端が鋭くとがり、中折れする特徴がある。

 

昭和侘助は江戸中期の「本草花蒔絵」(1739年)に「数奇屋」の名で説明があり、

明治初期の「椿伊呂波名寄色附」(1877年)に「初雁」の名で登場する。

一方、現在の数奇屋が「数奇屋」の名で登場するのは、明治初期の伊藤小右衛門らの「椿花集」(1879年)以降です。

江戸時代には別の名前で呼ばれていた。

 

 

 

   巻十九 四一五二 大伴家持

http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/on-tsubaki.htm               卜半(ボクハン)椿

生薬・薬用植物のページより                          別名・月光、唐子咲で他の椿と芯の部分が白である。

帝京大学薬学部

http://aquiya.skr.jp/index.html

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system