太田道灌の山吹の里の逸話はウソ?

雨に出会った太田道灌が、雨やどりしたあばら屋で蓑(みの)を貸してほしいと頼むと、若い女が山吹の一枝を蓑のかわりにさし出した。

そのとき、道灌は腹を立てたが、後でそれが、「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」という『後拾遺和歌集』の和歌にたくした、

奥ゆかしい心だったことを知り、たいそう自分の浅学を恥じました。
 これは、太田道灌を知らない人でも、きっと聞いたことがある、有名な逸話です。
 ところで、太田道灌は室町時代中期の武将で、上杉氏につかえ、長禄元(1457)年、江戸城を築いた人です。
 彼は、正史によると9歳から11歳までの3年間を鎌倉五山の一寺で修行し、神童とまで呼ばれ、

しかも、和歌の道では、父祖以来歌人として名声を博していました。

 和漢の学問や和歌に長じ、京都五山の詩僧とまじわって、文化的名声を博した道灌にとって、

和歌は幼少のころからいわば身にそなわったものだったのです。
 山吹の故事が、いかにいいかげんなものかよくわかります。
 この伝説の出典は『老士語録』にある和歌のたしなみの深い老女と道灌の話によるもので、

後、それが岡山藩士湯浅常山によってつくりかえられ、江戸中期の元文4(1739)年『常山紀談』に発表されたものです。

山吹の里の娘で自信をつける
姓道修業した戦国武将 太田道灌
 康正元年(1455年)家を継いで扇谷上杉家の家老となったのが二十五歳。

翌二年、江戸城構築にとりかかる。
 『根城、中城、外曲輪の三つよりなり、石壁は聳え立つこと十丈余……外流を引き入れ、濠となし……

城中、五六カ所の井戸は大旱にも涸るることなし……云々』
 と、『江戸記聞』に書かれている。

わが国では古来から築城は山上ときまっていた常識を破り、平地に堅塁を築いた、わが国築城史上の一大革命だった。
 当時、関東では下総・上総・安房・常陸(千葉・茨城)に勢力をもつ足利成氏に対抗して、

伊豆、相模、武蔵(神奈川、埼玉、東京都)を勢力圏内とする扇谷上杉と弟の上野・下野(群馬、栃木)を

所領する山内上杉と組み、互いに覇をきそっていた。
 道灌が江戸城をつくった年に、主人の上杉持朝は鎌倉の扇谷から進出して川越へ城をきずき、

道灌の父資清は岩槻へ同じく築城して足利の侵略にそなえた。
 道灌が城を築いた江戸は、奥州との交通の要衝であり、水陸の便にとみ、兵事にもっともすぐれた地勢であって、

容易に足利氏が手を出せなくなった。

こうなると暇ができる。毎日、狩りでもして暮らさなくてはならない。

家来を供につれて今の小石川の山吹の里へ猟に出かけていった。

夏のこととて兎も猪も出てこない。おまけに、はげしい夕立ちが降ってきた。
 「わっ、たまらん。駆けろ駆けろ!」 と、道灌は先に立って駆けだしたが、

黒い雨雲は道灌のいく方向へむかって走っているので、とうとう上から下までビッショリになった。

その時のことを思い出し、 管領細川勝元の問いに対して、
  急がずば濡れざらましを旅人の
    あとより晴るる野路の村雨
 と、読んだのは後のことである。
 ともかく、一軒のあばら家へとびこんで、
 「これ、ミノを貸せ。この雨じゃあ城へもどれん」
 と,大声で叫ぶと、奥から出てきたのは十七、八歳の娘だった。
 「まァ大へん、お濡れなさったのね。おあがりになって着物をおぬぎなさいな、乾かしてあげますわ」
 「そうか、すまぬ……じゃ頼むぞ」 と、上へあがって衣類をぬいだ。
 「おう、下帯まで濡れとる。きもちが悪い」
 と、ばかり下帯まで取ったところを見て娘は、あっ……と、驚いた。

道灌は、あわてて前を押さえたが、もうおそい。

娘は茫然と見とれてしまった。
 村の若い男たちに、こんなリッパなものを持っているものはいない。
 「まァ……そんなところに立っていらっしゃらないで、奥へはいっておいでなさいな」
 奥のひと間へいれておいて、着物を物干竿にとおして軒端へかける。
 それから娘は道灌の部屋へはいっていった。
 「ねえ、お布団しきますわ。しばらく休んでいらっしゃいな」
 素っパダカで小さくなっている道灌に、うすい布団をしいてやって、
 「お宿をおかししたんですから……ねえ、あたしにも一ペンかしてちょうだいな」
 「な、な、なにを?」
 道灌は、持ち物の劣等感からあとずさりしたが、娘のほうは前へいざり出ていった。
 そのころの女は、後の世の儒教道徳にむしばまれて男の前で小さくなってしまうような

性質は持ち合わせなかった。
 「ふっふっふっふっ。りっぱだわ! ねえ」
 と、ばかり道灌にかじりついた。
 「ふーむ。……お前こそりっぱだ。わしは人並みじゃない。とても間に合わぬだろ」
 「いえ。ミノを貸せなんて、こんなリッパなカサを持ちながら何よ……

要はこれの使い方よ。使い方を、あたしが教えてあげますわ」
 ここで手どり足どりして娘は道灌に教えたので、道灌は眼がさめたように、
 「ありがとう! 戦さならば誰にも負けぬ自信があったが、

このほうでも、わしは自信がついたぞ」 と、いった。
 戸外は雨がはれて陽がカンカン照ってきたのを、

軒端に立って家来たちはボンヤリと待っていた。
 これが後に伝えられところによると、ミノを貸せといわれた時に娘が、

黙って一枝の山吹の花を差し出した。
  七重八重花は咲けども山吹の  ミノ一つだになきぞ悲しき
 という古歌のあることを、道灌は知らず、家来に教えられて学の無さを恥じ、

後に学問に精進してりっぱな歌人になった……と、ある。
 これは教科書にものった学業奨励≠フ逸話だが、あにはからんや五百年も前に著された

『後拾遺集』に、これとまったく同じ逸話が載っていて、中務卿兼明親王の和歌であって、

まさに逸話作家の盗作である。
 武蔵野の百姓娘が、道灌さえ知らなかった古歌を知っていたということもウソなら、

とかく日本の歴史は美化されすぎ、教訓的であるようである。

川 越 雑 記 帳

http://www.maroon.dti.ne.jp/kwg1840/

 

 

(川越原人のホームページ)より

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