とろろ

 

「三日とろろ麦ご飯と」と円谷幸吉

 

 

 

【作り方】
.とろろ芋(丹波産ツクネイモ)は皮をむき、アクをぬくために水に浸けておく。
.鍋に出し汁を入れ、味噌を入れて煮立て、冷ましておく。
.とろろ芋の水気を取り、すり鉢で十分粘りが出るまで十分にする。

約2.30分はすりこぎでする そうすると、見事なまでの細かい空気が入り 

ふんわり、真っ白なととろが出来上がる。
  すり上がったところに 出し汁を少しずつ加えながら再びする。

 

正月3日に三日とろろといって、とろろ汁を食べる。
これは正月料理やお酒で疲れた胃腸を休めたり、
三が日中に餅を食べ続けた締めとも言わる。

風邪をひかないと言われている。

おかずには,ゲキ辛塩びき(鮭)焼くと真っ白になるくらいの塩が噴き出す。

勿論 白米5・麦5の むぎご飯

この麦も、押し麦ではなく丸麦が最高だ。

 

 





 

 

 

丹波のツクネ芋               銀杏芋            一般的なずんぐり太郎

 

やはり、みそ汁やおすましで薄め 麦飯とするには、丹波か銀杏に限る

とろろとマラソン、どんなつながりがあるのだろう。

然し、東京オリンピックの円谷選手は、ご存じだろう

この、選手と三日とろろが、悲しい、切ない、胸を締め付けられる つながりがあるのだ。

毎年、とろろを食べると思い出す。

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東京オリンピックのマラソンで、君原選手が日本人では最有力と目されており、

円谷さんは余り注目はされていなかった。
しかし、本番では君原選手や寺沢選手が脱落する中、上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で入場。
だが、後ろに迫っていたイギリスのヒートリーにトラックで追い抜かれてしまう。
これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したので、

トラック上での駆け引きが出来なかったことが一因として言われた。

とはいえ、東京オリンピックで日本が陸上競技で獲得した唯一のメダルとなり、

「日本陸上界を救った」とまで言われ当時は大変なニュースとなった。
その後、周囲の期待の重圧と走れない焦りから、

196819日にカミソリで左頚動脈を切って自殺してしまう。上の写真が遺書である。

「三日とろろ」と言えば、川端康成も絶賛した名文・円谷幸吉の遺書にも登場するあの食べ物。


「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。

干し柿、餅も美味しゆうございました...
で始まり「幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。
何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にあった
家族への感謝と「疲れ切ってもう走れない」の言葉は世間に大きな衝撃を与えた。

川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』を発表し「繰り返される《おいしゅうございました》 といふ、

ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。

そして、遺書全文の韻律 をなしてゐる。
美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り「千万言も尽くせぬ哀切」と評しました。

(「風景」19683月号)

以上は、引用ですが、オリンピック当日グラウンドで負けた円谷選手に対して、

厳しい論評がなされたことを思い出す。強化選手に選ばれて、

その重圧に負けて自殺した円谷さんの責任感と家族を慕う心情を思うと、涙せずにはいられません。
当時、私もオリンピックを見ながら「何故、2位のままで頑張れなかったのか」と、

銅メダルを悔しく思った一人でした。今にして思えば、大人気なかったと反省しています。

円谷選手の簡単な概略は、自衛隊で、めきめきと陸上選手として頭角を現し、

マラソンと1万メートルの日本代表となる

(マラソンと他の種目を掛け持ちした日本人選手は円谷だけ)。

初マラソンから半年で東京オリンピックに出場、誰も期待してなかったのに、

当時走る哲学者、前回のローマオリンピックを裸足で走ったアベベの独走に続き、

競技場に入ってきたのは、円谷であった。

円谷は、競技場で1人抜かれるが、それは父親に、男というもの、

後ろを振り返っちゃいかんといわれていたことを愚直に守って、

迫ってきたのを気がつかなかったとも言われる。

誰もが驚いた銅メダルに、円谷は、ついつい、次回のオリンピックには、

金メダルを取りますとコミットメントしてしまう。
 しかし、自衛隊の幹部の方針転向や、金メダルとるまで結婚しないと宣言し、

結局婚約者とは婚約破棄、コーチの転勤による孤立無援状態、

持病の腰痛の再発、緊張によるオーバーワークによる疲れ、など様々な不幸が襲い、

周囲の期待その重圧がゆえ、メキシコオリンピックの年、自殺してしまったのであった。

当時、その死を擁護したのは、自らも自殺した三島由紀夫であった。

 

陸上自衛隊 三等陸尉 円谷幸吉 1968/01/09 http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/tsumuraya.html

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

円谷は福島県立須賀川高校で陸上部に在籍していた。

円谷は特に成績を残す訳でもない平凡なランナーだった。

県の10マイルロードレースに出場した時も順位はビリから何番目という散々な結果だった。

レース終了後、陸上部の監督は県陸連の委員から円谷について次のような言葉を聞いた。

「おまえのところには面白い選手がいるじゃないか。あいつさ。

あれだけ走ってひとつも汗をかいてない。

不思議な奴だ。」

円谷は高校を卒業後、自衛隊に就職した。円谷の配属先は地元、須賀川駐屯地だった。

須賀川駐屯地には陸上部がなかった。

円谷は先輩の斉藤三曹と共に陸上部を設立し、毎日20キロ以上走りこんた。

円谷は近所で開催された草レースに出た。円谷は一位、斉藤は二位に入賞した。

そして自衛隊の上層部はレースに出る度に入賞する二人に注目した。

東京オリンピックが近づいていた。

昭和37(1962)4月、陸海空自衛隊共通の特殊学校として自衛隊体育学校が設立された。

表向きは自衛隊の体育教官養成が目的の学校だった。

しかし実際は東京オリンピックのためのメダル候補生養成機関だった。

円谷は入校を志願した。

円谷は腰部カリエスの持病を抱えながらも一教官の直感により入校が許可された。

1963年、円谷はニュージーランドで開かれた2万m走において、

ザトペックの世界記録を4秒縮るタイムで2位入賞した。

長年不振に喘ぐ日本陸上界にとって久しぶりの快挙だった。円谷は一躍天才ランナーと賞賛された。

1964年東京オリンピックが開催され円谷はマラソンに出場した。

この時、円谷はけして後ろを振り向かなかった。

前、競技会の時後ろを振り向いた円谷は父から

男ならけして後ろを振り返るようなことはするな!」と強く叱責されていた。

円谷はゴールの代々木競技場へ2位で入場した。観衆は熱狂の渦に包まれた

。しかし、けして後ろを振り返らない円谷は場内でヒートリーに追い抜かれ3位に入賞した。

しかし円谷のメダル獲得に日本中が熱狂した。地元須賀川市では大パレードが行われ、

防衛庁長官からは第一級防衛特別功労賞が授与された。

1966年、円谷は長年付き合っていた地元の女性と結婚する予定だった。

しかし上官は競技生活に支障が出ると反対した。

結婚は次のメキシコ五輪までしてはいけないと円谷に告げた。

円谷は女性に結婚の延期を告げた。その後、女性は円谷の自宅を訪れ、

玄関先に一つの段ボール箱を置いて去った。その中には円谷が送ったプレゼントが全て詰まっていたという。

それから円谷は相次ぐ故障のため成績は延びなかった。

女性は昭和42年暮れに須賀川市内の商家に嫁いだ。

昭和43年1月、正月に久しぶりに帰郷した円谷はどこかでその話を聞いたのだろうか。

円谷は正月、実家から東京へ帰るとき、兄の車に伴走されて国道4号線を走るのが常だった。

普段は数時間は平気で走っている円谷はこの時、10分もしないうちに車に乗り込んできた。

そして呟いた。

「もう走れない。」

数日間、円谷は官舎に戻ることはなかった。

官舎に戻ったのちに安全カミソリで頸動脈を切り自殺した。

円谷の葬儀は須賀川市と円谷家の合同葬として行われた。

生家は円谷幸吉記念館として公開されている。

須賀川市では毎年11月第二日曜日に円谷幸吉メモリアルマラソン大会を開催しており、

命日には地元陸上競技協会の後想会が開かれている

http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/tsumuraya.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210383937

http://plaza.rakuten.co.jp/doimoi/diary/200702010000/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%...

 

 

 

 

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