伽羅先代萩 |
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★「伽羅」と書いて「めいぼく」と読む 評判になったので歌舞伎でも上演した。 現在上演するのは両方が交じっている。 (仙台の伊達家当主の座をめぐる後継者争いのこと。)
綱宗の不行跡による危機が「仙台藩最初の危機」とするならば、 この綱村のときの危機はまさに「仙台藩最大の危機」である。 万治三年(1660年)に三代綱宗が不行跡という理由で隠居させられ、21歳で隠居 側室の生んだ亀千代がわずか二歳であとを継いだ。 その後見となった伊達兵部が江戸家老の原田甲斐と手を結んで、藩政を握る。 それに対抗したのが伊達一門の安芸人たちだった。 事の真相は、藩政改革の積極派であった甲斐一派に対する保守派の抵抗、 というのが歴史上の解釈 ところが仙台藩での権力争いが激化し、兵部宗勝に対立する伊達安芸(伊達家の親戚のおじさん)が 江戸の幕府に訴え、大老・酒井雅楽頭忠清(姫路藩主)が裁定した。 (この場所が東京・大手町の将門塚があるあたり) (これらを伊達騒動という) http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/254870.html やまとこころより 派閥http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E9%A8%92%E5%8B%95 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 週刊文集 3月15日号 板東玉三郎 撮影 篠山紀信 若君 鶴千代を暗殺から守るのが乳人「政岡」という しっかりもの、 これに対して憎たらしいのが「八汐」。 敵が毒を盛るのを防ぐために、御殿の中で政岡がうちかけを 着たままご飯を炊く 政岡の子供の千松が食べて 八汐に殺されるのだが、政岡は我が子が目の前で 殺されるのを、お家のために腹の中では 泣きながら、表面は平静をよそおい、ぐっと我慢し、 敵が去ってから抱きしめて大泣きするところが、 見せ場。 客席も涙・涙 最高という意味ではなく 仙台候が伽羅で作った下駄をはいていたので、 伊達騒動・鶴千代・伊達綱村 廟 歌舞伎に出てくる殿様「足利頼兼」が伽羅の ちなみに、先代萩の由来は、仙台のお大尽「萩大尽」という人がいて、それから生まれたと 四代綱村の正室稲葉仙姫は、青葉区高松の萬寿寺(大檗宗)に葬られ霊廟もあったが、 昭和35年ここに移された。改葬に際し掘り出された白木造りの籠と位牌は管理所に安置されている。 なお萬寿寺にあった綱村夫人の霊屋門は青葉区新坂町大願寺に移築されて山門となっており、 仙台市指定文化財になっている。 ※三沢初子 貞亨三年四十八歳で没す。 政 岡 墓 所 かの有名な歌舞伎十八番「伽羅(めいぼく)仙台萩」のモデル政岡は、 伊達騒動の際、幼い亀千代(のちの綱村公)を身をもって守りぬいた三澤初子といわれています。 僅か二歳で継嗣となった四代藩主綱村を、数々の苦難のうちによく育て、 貞享三年(1686)47歳で生涯を閉じた。 通称『政岡の墓』といわれるようになった。 騒がしい市中にあって、別世界のような静けさの中に伊達家墓所があります。 二代藩主伊達忠宗の正室・徳川振子、三代藩主綱宗夫人三沢初子、 四代藩主綱村正室稲葉仙姫の墓が三基整然と建てられており、仙台市の有形文化財(史跡)に 昭和47年に指定されている。 綱村は自ら政務を執り始める。まず、防風林を設け、運河を開発するなどの治績で大きな成果を収めた。 また、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力した。 さらに仏教に帰依して寺院の建立、神社の造営に尽力し、「仙台藩中興の名君」と讃えられた。 しかし、寺院や神社の造営など、様々な改革を行なったことがかえって藩財政を逼迫させることとなり、 これを解決しようと天和3年(1683年)に藩札の発行を行なったが、かえって物価の高騰を招き、 仙台藩の財政はさらに悪化の一途をたどった。 元禄6年(1693年)、藩主綱村中心の専制政治に対し、伊達一族は反発、諌言に及ぶ。 そのため、綱村は謝罪状をしたためる。 元禄10年秋、綱村の政治姿勢は改まらず、家臣団は藩主の強制隠居を計画するものの、 親族稲葉正通らの反対で挫折する。 元禄16年(1703年)8月18日伊達一族から強要されて、ついに隠居を余儀なくされた。 長男は早世していたため、家督は養嗣子で第2代藩主・伊達忠宗の ちなみに、平泉にある源義経ゆかりの高館・義経堂は 天和3年(1683年)、綱村によって建立された。 綱村は享保4年(1719年)61歳で死去した。 仙台藩の歴代藩主の中では、藩祖の伊達政宗を例外とすれば、 名君の一人と言えるであろう。 http://www.weblio.jp/content/%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%B6%B1%E6%9D%91 http://homepage2.nifty.com/tisan-tutujigaoka/kinrin-masaoka.html
尚 仙台萩と宮城の萩は違う植物。 センダイハギ マメ科 草丈は40〜80cm、5月から7月にかけて黄色いマメ科 特有の花を咲かせる。北海道の東部の海岸、浜頓別に大きな 群落があります。 東北地方で5月下旬、北海道で6月下旬ごろが見ごろになる。
東北地方の海岸に自生することから、仙台に関係のある 歌舞伎の演目「伽羅先代萩」からセンダイハギと名前がついた。 違いは先代萩は茎が草で5月頃に咲く 下の写真2枚が秋に咲く萩 萩は、茎が木 8月から9月に咲く
大年寺跡(伊達家墓所) (宮城県仙台市太白区茂ヶ崎1丁目) 伊達家の墓所としては経ヶ峯(瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、妙雲界廟)が有名ですが、
四代綱村以降(九代宗周、十一代斉義夫妻を除く)の歴代藩主の墓はこの大年寺跡
にあります。
室町時代の応永年間(1394〜1428)、この地には粟野大膳大夫の居城・茂ヶ崎城が
置かれてありました。そして四代藩主綱村の治世になった
元禄9(1696)年、この茂ヶ崎の地において綱村は寺院造営の縄張、
鍬入を行い、翌10年に黄檗宗両足山大年寺として開基されました。
以後、歴代藩主の墓所と定められ、宝華林廟、無尽灯廟(ともに非公開)が
それぞれ墓所となっています(また藩主夫人、明治以降の当主、当主夫人)。
明治維新直後の廃仏毀釈に伴い、伊達家は墓の祭祀を
仏式から神式に改めます。 それにより藩の保護を失った大年寺は衰退し、建物は廃墟と化して取り壊され、 画像にもある惣門が唯一の遺構となりました。 この惣門は享保初年(1716)頃の建築と推測され、年々の老朽化により昭和60年から61年にかけて 創建時の姿に修復されたものです。 扁額の「東桑法窟」の字は鼓山道霈の筆によるものです。 ●綱村の遺言により御霊屋は建立されず 前述のとおり墓所そのものは一般公開されておらず、伊達泰山文庫・伊達綱村以降歴代藩主の墓に 詳細記述があります。それによれば同地には墓碑のみが存在し、 経ヶ峯にあるような御霊屋建築の墓は1つも存在しません。 これは綱村の遺命、 「先規に従い毎世廟を建てなば後世 子孫何を以て保たん、我死せば墓石を建て、瓦葺の屋根を覆うまでにすべし」に由来します。 綱村以降の藩主も同様に御霊屋は建てられず、葬法そのものも簡素化され ていったと考えられています。 以上をまとめると歴代仙台藩主の墓所は以下のようになる。
初代政宗(経ヶ峯・瑞鳳殿) 二代忠宗(経ヶ峯・感仙殿) 三代綱宗(経ヶ峯・善応殿) 四代綱村(大年寺跡・無尽灯廟) 五代吉村(大年寺跡・無尽灯廟) 六代宗村(大年寺跡・宝華林廟) 大年寺山門からの石段 七代重村(大年寺跡・宝華林廟) 無尽灯廟(非公開) 八代斉村(大年寺跡・宝華林廟) 九代周宗(経ヶ峯・妙雲界廟) 十代斉宗(大年寺跡・無尽灯廟) 十一代斉義(経ヶ峯・妙雲界廟) 十二代斉邦(大年寺跡・無尽灯廟) 十三代慶邦(大年寺跡・宝華林廟) 宝華林廟(非公開) 新 門 http://hb2.seikyou.ne.jp/home/fm/shiseki1.html 宮城史跡巡りより <東陽寺の歴史>東陽寺 データ 寺は伊達氏の米沢時代、原田家の菩提寺として羽前国(山形県)西置賜郡小松に創建されましたが、 伊達家の転封に伴った原田氏と一緒に船岡へ移り天和元年(1681)、現在地に移築されました。 家来が遺体を密かに船岡に持ち帰り、東陽寺の裏に埋めました。 その後、東陽寺が現在地に移った際、甲斐の首は梵鐘に隠されて運ばれ、本堂の裏に密葬し、 目印に銀杏を植えたといわれています。 宗輔の墓と伝えられる自然石は逆臣原田宗輔(甲斐)とういうことで、世をはばかるため墓石は伏せられていたと言われています。 後に銀杏の大木の前には、原田甲斐の首塚が建てられました。 http://miyagitabi.com/tome/touyouji/index.html この、綱村が眠る 廟が 仙台市民にも忘れられ ひっそりと ねむる大年寺山 この間まで、あれ放題であったが、見るに見かねて、市長に、3回 手紙を出した。 その結果というわけではないが、一年かけて、きれいに整備され、癒す公園になった。 訪れる人もなく、近所の住民ばかしの、散歩コースとなっている。 これだけ、歴史上の人物 廟を 観光資源にしない宮城はどうなっているのだ。 たとえ、観光資源にしなくとも 整備だけは、もっと早くしてほしかった。 訪れる人も 誰の廟か 入れない中を覗いて、互いに頭をかしげている。 立て看板(案内板)がほしい。 先に出て来る 「初子」の墓も、仙台駅東口・仙台サンプラザとメルパルク仙台にはさまれた一角に、 政岡こと四代藩主綱村公の母・三沢初子の墓がある。 伊達騒動の際、幼い亀千代(のちの綱村公)を身をもって守りぬいた初子。 同じ敷地内に、四代綱村公の正室・稲葉仙姫と、 二代忠宗公の正室・徳川振姫の墓もある。 。ビルの影にひっそり、こちらも あれ放題になって佇んでいる。 『伊達綱村茶会記』に収録されているなかの、七月十九日の茶会。 香合は青貝でデザインされた唐物を使用し、花入の名は“荒磯(あらいそ)”、 茶入の銘は“さざなみ”、そして他にも染付けや青磁のものを使い、主菓子にこうやもち).耕谷もち いかにも涼しげでやさしさの感じられるとりあわせです。 http://www.rakuten.co.jp/furoshikiya/479584/564953/ 下増田字耕谷地内 問合せ先 022-384-2151〈耕谷もち推進協議会(名取岩沼農業協同組合内) この大年寺山が、僕の、1週間に1度の低山 散歩コース。 最近整備された廟の周り その廟の正門を散歩の織りに箒をもって掃除することも 僕のコースの一つである。07.5.5 http://photozoo.exblog.jp/3099327/ http://blog.goo.ne.jp/marshall_3/c/5ef9dc9ee6e6e5653a1266a693965f3a |