相 馬 駒 焼

歴史:寛永年間(1623)に、藩主の上洛の供をした

田代源吾右衛門が始めたとされている。

吾右衛門は、藩主の命で上洛し、仁清について

7年間学んだ後、寛政7(1629)に中村城下に開窯した。

走り駒の絵を始めたのは2代清治右衛門。

狩野派の絵師狩野尚信が来城の際に描いた絵を

もとにしていると言われている。

毎年正月初子の日には、将軍家献上品として、

藩主や城代家老が自ら駒の絵を描き入れて

相馬駒焼は、相馬藩の「御止め焼き」

藩窯で、藩の什器や贈答品のみを焼き、

一般の使用を禁止した焼きの)された。

代々相馬藩の御用窯で、抹茶茶碗、酒器、花器などの

雅陶を焼いたが、作品は明治まで一般には出回らなかった

特徴:砂混じりの粘土を用いているため軽いのが特徴。

色は玉子手と呼ばれる卵黄色の釉薬を用いた黄瀬戸

似たものと、青磁釉で焼かれた緑青色の2種類。

青磁釉は、「青ひび焼き」といわれ、黒いひび

入ったもの。駒の絵が描かれたものが有名。

茶器が大半を占める。      下(▼)・ 相馬焼粘土

                   



    

                                      登り窯 赤松の薪

大 堀 相 馬 焼

歴史:元禄3年(1690)頃、大堀の地侍半谷休閑

(仁左衛門尉)と使用人左馬が、井手村美森に良質の

陶土を発見し、開窯したのがはじまり。

左馬は生まれつき器用で陶器つくりに強い

関心を持っていたことから、休閑は西山町の両所陶師の

元に出してしばらく作陶を習わせた。

その後、中井手村の美森山で良質の陶土を見つけ、

本格的に陶器を焼くようになった。

半谷家は現在も続いていて大堀相馬焼の

元祖を名乗っている。当初は七人衆と称して

製陶を7人の村民だけに限定し、一子相伝とされていた。

この禁制は後にゆるんで宝永年間(1704-1711)には、

窯元は近隣8ヶ村におよび約100窯があったという。

相馬藩はこれを特産物にしようと、「瀬戸役所」を設け、

資金の援助や原材料の確保等の保護育成につとめた。

江戸や函館にも販売所を設けて、殖産興業に力を入れた結果、

東北を代表するやきものに発展した。

製品は日用雑器であった。大堀相馬焼では、

駆けたりはねたりしている馬の絵を

描いているのが特徴

になっている。
           

これはもともと相馬中村の相馬駒焼で描き始めたものであった。

駒絵の起源は相馬藩主利胤が絵師狩野尚信の描いた馬絵を

絵付けさせたのに始まる。

明治42年になって商標登録の際に、相馬駒焼の方から

大堀相馬焼に駒絵の使用を禁じるように訴えが出された。

争いは大正の末まで続いて大審院にまで持ち込む訴訟合戦となった。

最後は、郡長や県知事が入って示談が成立し、

両方で駒絵を描くことで決着した。

明治期に入り、藩の援助がなくなり、交通網の発達で、

他産地から安価な製品が流入するようなり、急速に衰えた。

大正期には窯元は30軒まで減ってしまった。

大戦後、立ち直り、鮫肌土瓶は、一時期アメリカなどにさかんに

輸出され好評を博した。

昭和53(1978)26日には、伝統工芸品の指定を受けた。

大堀相馬焼には「青ひび焼」「走り駒絵」

特徴:青磁釉、白流釉、灰釉、あめ釉 が、大堀相馬焼伝産指定釉薬に

なっている。
   


   

明治期に開発され大ヒットした「青ひび焼」というひびの入った

青味を帯びた釉薬に、走る駒の絵を描いた作品が主流となっている。

透明な青色の釉薬に黒いひびが入った茶碗などは独特のもの。

相馬野駒追いからとったという駒の絵は狩野派の筆法と伝えられ、

疾走する馬が描かれている。湯呑みや急須は二重底になっており、

これも大堀相馬焼独特の様式。保温効果がある。鋲止加飾といって、

花瓶や壷に縄や龍の細工物を巻き付けたように飾り付ける手法も見事。

胎土に砂鉄を混ぜて、斑紋を出す「砂鉄緑釉」の製品も人気がある。

青ひび焼に、金彩で走り駒絵を描いた製品も焼いている。






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          相馬市の観光案内

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     相馬野馬追

 1干有余年の昔にタイムスリップ。国の重要無形民俗文化財にも指定されている

相馬野馬追は、毎年7月23日から25日に催され、先祖伝来の甲冑を身につけた

騎馬武者が相馬中村神社から出陣、戦国絵巻を繰り広げる。

     大 手 門

中村城築城時の面影を今に伝えている。

     中村城跡赤橋

中村城は、801年(延暦20年)坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時、菅原敬実をおいて

北の守りを固めたのがはじまりと伝えられている。その後相馬氏の居城となった。

 

     相馬中村神社

1643年(寛永20年)相馬18代藩主義胤公により建立、相馬家代々の氏神として

崇拝されてきた。昭和58年には国の重要文化財に指定されている。総素木造り。

 

     相 馬 神 社

相馬氏の始祖師常公を祭る神社として中村城の本丸跡に建立された。

師常は、鎌倉四天王として源頼朝の厚い信頼を得、相馬天王ともよばれた。

 

     二宮尊徳墓地

相馬復興の際、二宮仕法を取り入れ、尊徳の高弟・富田高慶、斉藤高行、荒至重

などの門人が指導にあたりました。御仕法開始後27年で相馬のほぼ全域が

立ち直り、相馬復興の大恩人・二宮尊徳翁を偲んだものです。

 

     涼ヶ岡八幡神社

南北朝時代に創建、現在の建物は21代藩主昌胤公が1695年(元禄8年)に

建立したもので、境内には矢旗塚、樹齢700年の夫婦杉がある。

毎年、9月の第3金・土曜日に例大祭が開催され「いもずいも」として市民に

親しまれています。また、桜の名所としても名高いところです。  

 

     百尺観音

相馬出身の仏師「荒 嘉明」氏が諸国遊歴の後岩山を切り開き建立した。

現在でも3代目が完成を目指し事業を進めている。





ナンと、こんなところを取材中に見つけました。日本のヘソ。

 

日本の標準時間を長波で伝える施設

郵政省通信総合研究所が福島県都路(みやこじ)村と川内(かわうち)村にまたがる
大鷹鳥谷山(おおたかどややま)に建設、全国に標準時情報を24時間送り始めた。
NTTの時報サービスやテレビ、ラジオの時報の調整に使われる。 
これに合わせて時計メーカーは、電波を自動受信して誤差を修正する時刻合わせ不要の「電波時計」を
本格的に売りだした。
  これまでは茨城県三和(さんわ)町のNTT名崎(なさき)送信所から発信される短波が使われてきた。
しかし、夜間には地球の裏側(うらがわ)にまで届くなどの性質を持つ短波は、
外国の電波がじゃまをするなど不安定だった。
これに対し、長波は周波数の精度が高く、安定した利用ができるという。
約60年使われてきた短波は2001年3月まで併用(へいよう)し、廃止(はいし)される。

  おおたかどや山標準電波送信所

 〜都路村から日本標準時を発信〜

 都路村と双葉郡川内村の郡境にある、大鷹鳥谷山(おおたかどややま)標高794mの山頂から
日本標準時電波(時報)が全国に向けて発信されています。
このことから都路村を「日本のへそ」と呼んでいます。


    






田舎づくりの梅干  MARSHALLのおすすめ

 自家製の梅を、沖縄産の自然塩で漬け、自家栽培のシソをタップリ使い、天日干しした
昔造りの梅干です。山男(夏ハゼ)のジャムなどもあります。

梅干 150g ・・・ 450円  梅干 200g ・・・ 600円
販売のお問い合わせ

「梅の会」 代表者 小林清八  
       都路村大字古道字山口103     TEL0247−75−2439


観光案内


 
行司ヶ滝

 阿武隈中部県立自然公園を流れる高瀬川の支流の行司ヶ沢にかかる落差25mの滝。
支流一帯は清流に洗われる奇岩怪石と、広葉樹の原生林とが見事にマッチし新緑と紅葉の時期には
見事な渓谷美を見せてくれます。清流の水は「ふくしまの水30選」に選ばれており、滝までの遊歩道は
「ふくしまの遊歩道50」にも選ばれています。
昔奥州の地であった本村は景行帝のころ武内宿弥の巡察、日本武尊の東征をしばしば迎えました。
このとき従軍の武士がこの地に留まり、あるものは戦乱をさけて移住し、永住の地としたといわれています。
 「東奥標葉記」によれば、天文18年(1549年)相馬盛胤は妹を田村清顕に嫁がせるにあたり、
化粧料として標葉郡岩井沢・古道・葛尾・南津島の4ヶ村を贈ったとあり、相馬領から田村領へ移ったことが
伺えます。そのころ近隣14ヶ村を総称して標葉郷と呼ばれていました。
 江戸時代の始めは会津藩に属していましたが寛永20年(1643年)白河藩領となったのち、
天保2年(1645年)秋田俊秀氏入国後、三春藩領となりました。
そのころ当地は、藩内有数の馬産地であり、享保3年(1718年)には藩営の牧場が設置されました。
 明治22年の市町村制施行により、古道村と岩井沢村を合併して、都路村となり現在に至っています。

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