松平忠輝・五郎八姫

 

 

 

 


松平忠輝 まつだいら・ただてる

松平18家の長沢松平家を継ぎ、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚。

文禄元(1592)年−天和31683)年

「貞松院」は松平忠輝の菩提寺、墓があり、遺品も祀られている。
徳川家康と側室 お茶阿の方 6男(7男?)として浜松城に生まれる。

 

越後福島60万石に国替え。忠輝は大阪の陣や京都参内の際の遅参したとして改易となり、

不届きにより、伊勢朝熊に配流となってしまう。

家康に勘当され 兄・秀忠により改易を受ける。

キリシタン大名らによる忠輝の将軍かつぎだしの動きも取りざたされ 飛騨高山を経て、

諏訪頼水の高島藩に流された。

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

五郎八姫 いろは姫

政宗と愛姫(めごひめ)の長女で徳川家康の六男・松平忠輝の正室になる。

五郎八姫は、母は正室愛姫(福島県田村郡三春町 しだれ桜で有名)生まれた女の子に

男名をつけると次は男子が生まれるという俗説から、五郎八姫と名づけた。

6歳の時 政宗と家康の政略的な婚約で 13歳で結婚 仲介人は茶人今井宗薫

 

慶長1116061224

江戸桜田の仙台上屋敷(現日比谷音楽堂辺)より

江戸城大手門脇の忠輝邸え

輿の行列の供に原田甲斐

 

伊達政宗は娘、五郎八姫が忠輝に嫁いだことにより

忠輝を担ぎ出そうとするが

異国人から多いに学び開国思想を持っていた進歩的な

忠輝は、罪の無い庶民を傷つけるばかりの戦ほど

愚かで無益なことは無いと考えていた。

豊臣家とは戦わないと宣言する忠輝。

忠輝は秀頼とは年齢が近いこともあり、不思議と意気投合し、変わらぬ友情を誓っていたのである。
 五郎八姫との婚礼の夜、忠輝は大坂城へ秀頼を訪ねる。

2代将軍秀忠は豊臣家を壊滅させようとしているが、臣従の意があれば一大名として

残しても良いという家康の意を伝える。

しかし未だ豊臣家の威光を信じる淀君の苛烈な性質に阻まれてしまう。
 一方秀忠は忠輝を婿に迎え勢力の拡大を図ろうとする伊達政宗らキリシタン大名を

封じ込めようとしていた。

秀忠はキリシタン禁止令を発布して、南蛮病院を取り壊してしまう。

宣教師にイスパニアへ五郎八姫とともに一緒に行こうと誘われた忠輝の心は揺れる。
 秀忠の武芸指南役であった柳生宗矩一族に忠輝はねらわれる。

忠輝が人並外れて武芸に優れていることがわかり、秀忠は忠輝排除に躍起になる。

これを知った家康は忠輝と五郎八姫をイスパニアへ送るようにとの、

伊達政宗の進言を聞き入れるが、藩を捨てることになることの責を取り、

花井三九郎が自害する。

これにより、忠輝はイスパニア行きを断念する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


MARSHALLへ 謹呈  平成8年9月11日

伊達 泰宗 殿

逸見 英夫 先生より

松平忠輝年表

文禄元年(1592)1歳徳川家康の六男として生まれる。幼名辰千代。
        慶長3年(1598)7歳で始めて家康と対面する。長沢松平家を継ぐ。

慶長4 1599 33 長女五郎八(いろは)姫,家康六男松平忠輝と婚約。


        5年(1600)9歳関ヶ原の戦い。辰千代元服し忠輝と改名。
        7年(1602)11歳下総佐倉5万石の領主となる。
        8年(1603)12歳川中島18万石の領主となる。
        10年(1605)14歳秀忠新将軍となる。忠輝が大坂城へ出向き、

豊臣秀頼との不戦の誓いが結ばれる。

11年(1606)15歳伊達政宗の娘五郎八姫と婚約。

慶長11     12月24日:長女五郎八姫、松平忠輝に嫁ぐ
15年(1610)19歳越後福島55万石が与えられる。
19年(1614)23歳高田城築城。10月大坂冬の陣起こる。

元和1年(1615)24歳4月大坂夏の陣起こる。
          戦場遅参が原因で、家康により10年間の謹慎処分。
 
2年(1616) 25歳4月家康没す。

病床で「野風の笛」(現在貞松院にある)を忠輝に残す。

7月:  松平忠輝夫人五郎八姫、政宗のもとへもどる。
7月二代将軍秀忠により改易(所領、家禄、屋敷を没収すること)。
        伊勢朝熊に配流。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


野可勢 ノカセ の笛 ・ 野風の笛

宝塚歌劇団 慶長グランド・ロマン「野風の笛」谷 正純 (脚本・演出)

東京宝塚劇場 パンフレット

4年(1618)27歳3月、飛騨高山へ移される。
7年(1621)30歳母茶阿局没す。
寛永3年(1626)35歳4月24日諏訪へ移される。
天和3年(1683)92歳7月3日諏訪にて没す。

昭和59年(1984)300回忌の際貞松院・山田住職の尽力で、徳川本家より改易が解かれた。

松平忠輝が改易されると離縁し伊達家へ帰へり (6167月 キリシタン信徒、天麟院と号した)

松平忠輝夫人五郎八姫 政宗のもとへもどる。

仙台に帰った五郎八姫は、再婚することなく、しばらく仙台城へ

その後、北に位置する蕃山(ばんざん)栗生(くりゅう)へ。

(現西道路トンネルを抜けた所)

 

隠れキリシタンに関しては、当然のことながら、文書の記録や伝承は残っていない。

間接的な証拠として、

1、栗生の鬼子母神像の姿(右手に幼児、左手にザクロの実)

2、栗生の鬼子母神の祭り(祭り日はマリア昇天日?)

供え物の12膳の箸(12使徒)、人目を忍び無言のお詣り

3、安養寺の観音像(左手に幼児、右手に蓮華)

4、愛子百件、ドス九十九件、残る1軒駐在所(ダンポさま)

の俗諺。ドスはハンセン病(らい病)のこと。

愛子は、仙台平野から青葉山の裏になり、人が隠れるには都合の良い地理的条件にあり。

愛子の南の秋保や、西の定義は平家落人伝説もある。

五郎八姫が隠遁の地に栗生を選んだのは、この地が隠れキリシタンの里で

あったからという説。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


愛子百件、ドス九十九件、残る1軒駐在所(ダンポさま)の俗諺は、

わざと人を寄せ付けないためのもではないかという解釈。

ドスはハンセン病ですが、仙台の市街地を流れる広瀬川の上流にハンセン病の

部落があるわけではない。もし本当にそんな部落があったら村ごと焼かれてしまっている。

幕末に有名な司教である小松氏が愛子から出たのも、隠れキリシタンの里としての

土台があったからである。

栗生の屋敷は、深い自然に包まれた蕃山の麓にあり,隠棲地としても適したところであった。

以前は 山岸修理(しゅり)屋敷だったが、その後、奉行 茂庭(もにわ)綱元の屋敷になる。

その綱元が栗駒山の近く、

栗原郡文字村に移り、建物が普請されて、

そこえ43歳で移り住む。それからは

西屋敷と呼ばれるようになった。

綱村が建てた稲荷社は屋敷の南西にあり

一匹の狐を哀れんで建てられた。

 

「凍てつくような水」「水漬けの拷問」

「カルワリオ神父」そして「殉教」・・・・・

 

仙台城に戻って4年目の寛永元年、

1月4日、極寒の広瀬河原で殉教した

切支丹を何度想ったことだろう。           水牢のあったあたり元広瀬川

 

=====ディエゴ・デ・カルワリオは1578年、ポルトガルのコインブラに生まれ

1609年、マカオから来日し京都で布教を始める。1614年幕府の宣教師追放令で

マカオに渡り、2年後再来日、東北各地で布教を続け、元和6年1620年に政宗も切支丹禁制の布告をし、

将軍家光が江戸札の辻で、切支丹大量処刑(江戸の大殉教)を行った1623年に、カルワリオは、

他の切支丹と供に出羽に向かって山奥に逃げる途中、役人に捕らえられ、雪の降る悪路を

2・3日も歩かされ仙台に送られた。======

年の瀬の12月30日の昼前 カルワリオ神父(読み方によっては カルバリオ)日本名

長崎 五郎衛門ら9人に対し、最後の拷問による転宗の強要が行われた。

広瀬川の河原に連行され、橋の近くの河畔に大きな穴が掘られ、柱が立てられ、

その柱に縛り付けられ 座らされた。

穴に水を引きこっまれた。

一同ゼウス・マリアの御名を唱える声が

夕暮れ時の青葉山に響き渡った。

五郎八姫も供に唱えるゼウス・マリアの御名。

 

この大理石は銅像の前に置かれてある  →

 

川原では役人が神父達に「転べ(ころべ)」

「転べ」→(転宗しろ、転宗しろ)と、

大声で呼びかけたが誰一人応ずるものも無し、

2時間近く水漬けにあい6人が凍死。

奇跡的に息を引き返した三名 神父

ジュリアノ次右衛門 マチアス次兵衛が、

祈りを捧げていた。

一度死んだ者が生き返った場合は、その場では

殺されないことになっているので 年が変わった

一月始め、同じ場所で同じ方法で、寒風が吹き

続ける中、川面が岸かの方から氷始める中で、

3人は静かに息を引き取った。

引き上げられたその体は、石のように堅く

なっていた。

弾圧に耐えながら布教を続け46歳で神の

許に登られた。

クルス 十字架の抹茶椀 両サイドは俵の蓋(ワラ)の模様が描かれている

抹茶椀 木彫り教室 渡辺 美弥子先生所有

切支丹禁制に背く大それた事だが瑞巌寺洞水和尚の手引きで     詳しくは 茶宴・香雪→茶道雑学→伊達綱村へ  ↑

髪を落とし、天麟院と名乗った。

観瀾亭と瑞巌寺の間に、天麟院(臨済宗)はある。

万治元年(1658)、洞水和尚を開山として天麟院を創建した五郎八姫は、ここで過ごし、

寛文元年(1661)5月8日68歳で没した。2年後、ここに霊廟が建てられ、

そばにハリ樅の木が植えられ

政宗三男宗清の供養塔などがある岩窟
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


重而召捕候

「キリシタン」の覚

右之者共色々いけんを申候得ども

ころび不申候ニ付 大橋之下に

水籠を仕入こび申様ニと様々申付

候へ共 合点いたざず両人ハはて

申候 相残七人もはてそうに見え

申候へ共壱人もころび可申と申者

無御座候

正月二日        銅像後ろ姿 神父・もんぺ姿の百姓・武士の袴姿

石母田  文書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いろは姫の仲介人は茶人 今井宗薫

三宗匠(さんそうしょう)

三人の茶の湯の宗匠をいうが、組み合わせにはおおよそ次の四通りがある。

@今井宗久、    津田宗及、    千利休

A今井宗久、   今井宗薫、     千利休

B千利休、      古田織部、     小堀遠州

C古田織部、   佐久間真勝、  小堀遠州

 

今井宗薫 [いまい そうくん]天文21(1552)-1627

宗久の嫡男。堺の町衆で茶人、後に武士 父の遺領を継ぐことができず

摂津住吉郡内で千石の知行を与えられ、茶頭として出仕した。

秀吉の元では恵まれず家康に接近した。

秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)これは秀吉の

そばにいて、いつでも相談にのる

人たちの事。 それでそれぞれの分野での

専門家を常時待機させて、

その都度呼び、

意見を聞いて勉強しる。

それ以外に暇な時の話し

相手でもある。

秀吉の御伽衆としては、

富田左近、織田有楽

(信長の弟)、茶頭の

万代屋宗安(利休の女婿)、

住吉屋宗無、今井宗薫、

武野宗瓦など、多い時で

20人位いた。

伊達五郎八姫霊廟。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五郎八姫の墓
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


五郎八姫物語

仙台落合市民センター内  調査研究委員会

新しい杜の都づくり青葉区協会

 

伊達政宗の素顔

逸見 英夫

伊達 泰宗

宝文堂

 

 

 

上越市西城2のカトリック高田教会に、

松平忠輝公夫人でキリスト教信者の

五郎八(いろは)姫を描いたステンドグラスが完成する。
 マリオ・カンドゥチ神父は38年前に同教会に入って以来、キリスト教の基本的な教えを絵で物語る

ステンドグラスの整備を進めてきた。御堂に入るととりわけ目を引く2枚は「生誕」と「復活」を表しており、

20年前に架けた。
 今回は2枚に続くもので「五郎八姫」はじめ「聖フランシスコ」「聖クララ」を描いた3枚。

「五郎八姫」のステンドグラスには妙高とお堀のハスをバックに、忠輝公も寄り添うように描かれている。

マリオ神父は「姫は教会前にあった高田城に確かに生きていた人でキリスト教は人や言葉、文化を超えて生きるもの。

信者でない人もきれいなステンドグラスをゆっくり見つめ、黙想してほしい」と話していた。
 観光都市 仙台には、此のいろは姫の観光案内書が何一つ無いことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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